アフィリエイトと不労所得の関係性は知らない。

小泉政権と不労所得

江戸時代の商人たちは「三方よし」といって、自分だけが儲けるのではなく、相手を儲けさせ、し かも、世間にも利益を還元することが商売の理想だと考えていた。 それは江戸時代に限ったことではない。現代社会でも、客の喜ぶ顔を見るのが何よりの生き甲 斐だとか、あるいはどんなに手間がかかっても、他人には真似できない優れた工芸品を作りたい と頑張っている人はたくさんいる。 しかし、こうした「利益は二の次」という考え方は、経済学ではすべて捨象されてしまう。 アリストテレスが「人間は社会的動物である」と言ったように、人間は本来、集団の中で生活を する生き物である。

 

 

人間は家族や仲間といった他者とのつながりの中で、自分自身の生き甲斐を 見出す、そういう存在なのである。 こうして私が大学の教室で近代経済学の講義を行なっている間に、日本社会の流れは大きく変 わりつつあった。自民党政権が倒れ、細川内閣が誕生した。一九九三年のことだった。この政権 交代の大激動の中、私のような「改革派」にもお声がかかった。いや「改革派」だったからお声がか かったのであろう。細川首相じきじきの諮問委員会である「経済改革研究会」(通称、「平岩委員会」) の委員として経済改革を進める提言を作れということであった。

 

 

としての持論を展開、「経済的規制はすべて撤廃すべし」と声高に主張し、規制を守りたい官庁や 業界と全面対決した。 いつの時代でも、世間は「総論」を議論している間は一定の評価をしてくれるものだが、これが しかし、近代経済学にかぶれていた当時の私には、こうした「当たり前」のことが分からなかっ た。合理的に思考し、自己の利潤を最大化すべく行動するのが近代人であるという人間観こそが 正しいものだと信じて疑わなかった。だからこそ、学生たちの不審そうな表情が理解できなかっ たのであった。

 

電話で営業する不労所得

 

人もいない天涯孤独の環境に満足して一生を終えることができる人はめったにいない。 「各論」になると態度はがらりと変わる。平岩委員会においても、それは同じだった。いざ個別業 界の規制改革の話になると、俄然反対論が強くなった。 ある日、大学に出勤すると秘書が「辞めさせてほしい」と言う。驚いて理由を聞くと「電話に出 るのが怖い」というのである。 平岩委員会で活動をしはじめてからというもの、大学の私の研究室には、未知の人からの電話 が頻繁にかかってくるようになった。多くは抗議であったり、あるいは「業界の事情をご説明し たい」という電話である。多いときには一日に数十本の電話があったと記憶している。私が出勤 しているときならば、直接、話ができるからいいが、留守のときには秘書が受けなくてはならない。 「電話で怒鳴られるのには耐えられません」というのが、秘書の辞職理由だった。

 

 

それほど、規制 すさ 撤廃への「鉄の三角形」の抵抗は凄まじかったのだ。 私があまり急進的なことばかりを主張したためであろう、私はやがて多くの業界に「危険人物」 かたきとして目の敵にされるようになった。 やがて細川内閣は首相の佐川急便による一億円の政治献金問題と、福祉税という名の消費税導 入の混乱で瓦解することになった。わずか八ヶ月での総辞職である。 その後、私が首相官邸にふたたび足を運ぶようになったのは、小渕内閣が政権を担当すること になった一九九八年の夏であった。

 

 

小渕内閣が発足してまもなく、高校の先輩である堺屋太一氏 ’ 「経済戦略会議」のメンバーとして、構造改革の提言をまとめる作業に加わった。 私はその議長代理に任命された。「経済戦略会議」では小泉内閣で大活躍をされた竹中平蔵氏もメ ンバーとして加わり、二百数十の項目から成る改革色の強い提言をまとめた。

 

 

その後、小渕首相は急逝され、森喜朗内閣を経て、「構造改革なくして成長なし」の小泉内閣に 至る。小泉内閣では竹中氏が経済改革を引っ張って行く役割を担ったが、これを機に私は首相官 邸に足を運ぶことはなくなり、少し離れた立場から日本社会のあるべき姿について考えるように なった。 から電話がかかってきた。堺屋氏は小渕内閣の経済担当大臣に任命されていた。

 

 

堺屋先輩は私に 経済改革を推進するために設立される「経済戦略会議」のメンバーになれと言う 堺屋氏から聞いた話だと、中谷巌という名前は政府審議会の委員として最もふさわしくない人 物として官庁が作っている「ブラックリスト」の一番最初に挙げられているのだという。そんなリ ストが本当にあるのかどうかは知らないが、「指名していただくのは光栄な話だけれども、そな事情ならば私を任命すれば、官庁との関係がまずくなるのではないですか」と固辞した。

 

 

構造改革と不労所得の方法

 

 

すると堺屋さんに「いや、官庁にそれだけ嫌われている人間だからこそお願いしたいのだ」と言われて しまった。 このように、「構造改革」が少しずつではあるが進められ、また、日本経済が「グローバル・スタ ンダード」なるものを受け入れていくプロセスを間近で見ていくうちに、私の中にある種の疑念 が芽生えてきた。今世紀に入ってからのことである。 それは、「構造改革や不労所得主義によって日本人は幸福になったのだろうか」という疑 たしかに構造改革によって、日本人の生活は大きく変わった。規制緩和によって、私たちの生 活が便利になった部分はたしかに多い。

 

 

 

また、市場開放によって、一○○円シヨップに代表され るように世界中から安い消費財が輸入されるようになって、いわゆる「価格破壊」といった現象も 起きるようになった。 小泉内閣の最大の課題であった郵政民営化は曲がりなりにも実現したが、最大の成果は、郵便 貯金や簡易保険で集められる資金が自動的に財政投融資となって不要不急の公共事業に流れてい くという仕組みにくさびが打ち込まれた点にあった。

 

 

 

この功績はこれからも語り継がれることに いなか なるだろう。しかし、田舎にあった小さくて便利な、村の人たちに愛された郵便局が民営化され、 採算が合わないという理由で次々に廃業していくことにどれだけの意味があったのだろうか。さ ぞかし、日本の昔懐かしい風景がひとつ消えて、さびしい思いをした人たちが大勢いたことだろ 小泉改革を経て、日本社会は他人のことに思いを馳せる余裕がなくなり、自分のことしか考え ないメンタリティが強くなったのではないか。

 

 

 

地域はいっそう疲弊し、所得格差は拡大した。医 療改革によって老人たちの心は穏やかさを失った。異常犯罪が増え、日本の社会から「安心・安全」 が失われた。こうした人心の荒廃や、貧富の差の拡大は、経済環境の変化がもたらした一時的・ 過渡的な現象などではなく、不労所得主義やマーケット至上主義そのものにビルト・イン されたものではないか。日本で進められてきた「構造改革」にはこれら日本社会の変化にほとんど 関心を寄せることはなかったのではないか。